さんまさんが醤油のCMで歌ってた、
「幸せってなんだっけなんだっけ~?!」
って唄。(古いっ!)
まさに、それを探しています。
・・・っていうのも、最近 仏教の本を読んで・・・「十牛図」に影響されている(笑)
今年の目標は
「フラフラしない」
&
「腹筋」
だから、あちこちのWSには出ず
木村師匠と浅貝先生に集中しようと決めた。
本読むくらいはいいよねーー。
「十牛図」は十枚の絵と漢文の解説によって修行の深化を十の段階で示している文献である。
10枚の絵と解説は以下のとおり、「真実の自己=幸せ」を獲得するためのメソッド。
- 尋牛
牧童が牛を探して旅にでた。牛は「真実の自己」を象徴し、「尋牛」は探し求める様子のことを指している。詩には“あてもなく、むやみに求めても見つかるはずはなく、正しく探す方法があること”と書かれていて、悟りの境地への手順があることを示している。 - 見跡
牧童は苦労して牛の足跡を見つけた。足跡、それは教典やその教えを象徴している。経典や教えは「真実の自己」を見つけるための手がかりになる、と説いているが、それはことばによって示される教えであり、仏教の正しい知見が身についたわけではない。 - 見牛
ようやく牛の姿を見ることができた。「真実の自己」を見ることができたといっても、それは一部分にしかすぎない。一部分でも見られたのだから、もう迷うことはなくその全体が見えるように努力し獲得するだけである、といった段階である。それを獲得するにはまだまだ多くの努力が必要であることが示されている。 - 得牛
長い間牛を探してやっと捕まえ、手綱をかけることができた。「牛を捕まえたもののどうすればよいか」という牧童の気持ちは、私たちが自己を制御できない虚しさと共通する。すなわち、「真実の自己」を経典と教えによって、ことば上からの知的に理解してもそれは知的段階にとどまり、実際は自分の思い通りにはならないことを指し示している。「真実の自己」を求める者が、「真実の自己」に対峙した時の切迫した精神的状態、葛藤が示されている段階である。 - 牧牛
気性の激しい牛に手綱をつけ、牛との緊張した力関係の中で、時には鞭も使い、長い時間をかけて牛を飼いならしていく段階。「真実の自己」を獲得しても、それが、自分が探していたものだと気づかないかも、また、少しの油断で獲得したものを逃してしまうかもしれない。しかし、このような迷いを断ち切ることで自己が「真実の自己」になっていく段階である。 - 騎牛帰家
この段階は、牧童は牛を飼いならし、手綱を放し牛の背に乗って歌を歌いながら家に帰る様子が語られている。牛と牧童が一体となっている状態である。「帰家」の「帰」は、「あるべきところに落ち着く」という意味で、私たちが生きている現実世界に帰ることが必要である、と説いている。「真実の自己」を獲得することができれば、それに従い、あるべきところに落ち着くことができる、と語っている。 - 忘牛存人
家に牛の姿はなく、牧童の姿だけになる段階。あれほど求めていた牛のことすら忘れた心境である。牛と自分が一体になったが、実は牛は外のものではなく自分の内にあるものだった、ということを知った姿。外の牛と一体となり幸せを得たのではなく、むしろ求めるものは内にあったのだ。求めるものは他になく、自分なのである。 - 人牛倶忘
この段階では、牧童の姿も家もそれらをとりまく自然もすべて消えてしまっている。「聖者の悟り」とは、「真実の自己」を実現した状態であり、それが「空」であることを示している。「実現された真実の自己も捨てる」ということがこの段階のテーマであり、描かれた円(一円相)があらゆるものにこだわらず、あらゆるものを受け入れる心境を示している。 - 返本還源
すべて消え、自然だけが現れる段階。「私なき」真の自己、自己ならざる自己は「無我」であり、本来の人間の性質はありのままの自然と同じ無我性であると説いている。 - 入てん垂手
てんとは「店」のこと、垂手は「手を垂れる」ことだが、この最後の段階は町の中に入っていって人々を救済するという慈悲の実践がテーマ。「真の自己」を実現した人は日常生活の中で、人々を教化する姿勢が必要である、と述べている。
私はどの段階なんでしょう。まだまだ、3ステップあたり。牛は獲得できたのか?できても一体化・・できてないねー。( ;∀;)