内田樹さんの
修業論を読み返しす・・
心に残ったフレーズを抜粋。この考え方、ヨガにも当てはまるなー
→ 内田樹 著 修業論から
「修業」という言葉自体が、死語化しつつあるように思われます。
修業の意味は、事後的・回顧的にしかわからない。
「努力とは一種の商取引である」
と信じてる人には、
修業は、理解できない。
彼らは、
努力した後、手に入るものを一覧的に開示しておいてほしい。そうすれば、
努力するインセンティブ(動機、報奨、励みになるもの)
になるから、と言う。
しかし、インセンティブと言う言葉が「反修業的」な概念。
インセンティブの価値は、努力がはじまる前に、すでに理解可能でなければ意味がないからです。
「努力したらお金をやる」という利益誘導が有効なのは、
「金の価値」が、努力する前からあらかじめわかっているからです。
ところが、修業というのはそういうものではありません。
修業して獲得されるものと言うのは、
修業を始める前には”意味不明”のものだからです。
身体技法の場合には、
修業で習得されたことは、
「自分の身体にこんな部位があることを知らなかった」「身体の部位を感知し、制御できるようになった」
と言うかたちで経験されます。
「できた」
「感じた」後になってはじめて、自分が何をした、のかわかる。
できる前には
「”あれ”ができるようになる!」
という目標設定をすることが、出来ません。
“あれ”が、身体実感として存在しないんですから・・・
→
(骨盤を倒す)
(股関節を畳む)
(肩甲骨を開く)
と言ってような身体操作でさえ、
最初からは出来ず、身体の内側の反応を認知することが、できませんでした。
「できた」後になって初めて
自分が「何をした」のか、わかる。
ヨガも修業。
実践して体験しなければ
よさはわかりません。
なので、
押し付けはしない。
ましてや
誰かと比べたり、
優劣や強弱を論じたりしない。
ゴールのわからないまま、走り続けることで
上手く説明できないし、
する気もないのですが、
ギフトが後からから、やってくる・・
そんな感覚が
ヨガの実践(修業)